第7章   見る物を 得ることができる       フランシス著



   新しい霊の啓示を理解するために、私の目を開いてくださった神様に感謝します。 神様はいつも、ご自身の みことばと 働きを、私たちが深く理解するようにと願っておられるのです。 マルコ11:23、24 は、キリストの体なる 教会に 啓示された、最も偉大な教えだと思います。

   「まことに、あなたがたに言います。誰でもこの山に向かって、持ち上がって、海に投げ込まれよ、と言って、心の中で疑ったことがなく信じていたなら、その人の言った通りにその人になります。 このことを通して、あなたがたに言います。何でも祈って、求めることは、今 受け取っていると信じなさい。そうすれば、あなたがたにあるようになるでしょう。」

  このみことばは、私たちに、さらに深い いやしの分野を教えてくれると信じています。 私たちの理解の目が開かれ、イエス様が再び来られる終わりの時代には、人々がそれまで見たこともない すばらしい霊の世界に、目が開かれると 信じています。 私は神様が、私たちの霊の目を開いてくださると信じています。 私たちはもっと 天的なわざを見るようになるでしょう。 この20世紀に御使い(天使)が下ってくるなどと、夢にも思ったことのない人々は、御使いが自分たちと共に どこにでもいてくれることを知り、驚くことでしょう。
  いやしが行なわれる所では、さらに大きな超自然的な神様の働きを見るでしょう。 この超自然的な 神様の働きは、多くの普通の人々の手によって行なわれるでしょう。 長い間、病人に手を置いたいやしを行なうスターは、数えるほどでしたが、神様は人を偏り見ない方です。 ですから、神様の国には スターなどありません。 しかし神様は、世界中でご自身の兵士たちを起こし、彼らは出て行き、病人に手を置くのです。 私たちが いやしのいろいろな方法を 学べば学ぶほど、その資格を持つようになります。 一つの方法がだめなら、勝利を得るまで 他の方法を試してください。

  まだ私が 完全に理解していない分野について、話しましょう。 啓示をいただくことにより、起こるいくつかのことを通して、あなたがたは全く新しい いやしの世界を体験することと、私は信じています。 これこそ あなたの人生において、真の警鐘になると確信しています。 列王記Uの2章を見てください。

   「がエリヤを たつまきに乗せて 天に上げられるとき、エリヤは エリシャを連れて ギルガルから出て行った。 エリヤはエリシャに、『ここに とどまっていなさい。 が私をベテルに遣わされたから。』と言ったが、エリシャは言った。 『は生きておられ、あなたのたましいも生きています。 私は決してあなたから離れません。』」

  このみことばを覚えていてください。

   「こうして彼らはベテルに下って行った。 すると、ベテルの預言者のともがらがエリシャのところに出て来て、彼に言った。 『きょう、が あなたの主人を あなたから取り上げられることを知っていますか。』 エリシャは、『私も知っているが、黙っていてください。』と答えた。」

  エリヤの言葉に注目してください。 そしてエリシャの答えに注目してください。 そして、この繰り返しに注目してください。

   「それからエリヤは彼に、『エリシャ、ここにとどまっていなさい。 が私をエリコに遣わされたから。』と言った。 しかし、彼は言った。 『は生きておられ、あなたのたましいも生きています。 私は決してあなたから離れません。』 こうして、彼らはエリコに来た。」

  ここでもう一度繰り返されているのがわかりますか。

   「エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。 『きょう、が あなたの主人を あなたから取り上げられることを知っていますか。』 エリシャは、『私も知っているが、黙っていてください。』と答えた。 エリヤはエリシャに、『ここに とどまっていなさい。 が私をヨルダンへ遣わされたから。』と言った。 しかし、彼は言った。 『は生きておられ、あなたのたましいも生きています。 私は決してあなたから離れません。』 こうして ふたりは進んで行った。」

  これはあなたがたのクリスチャン生活において、とても大切なことなのです。 もっと深くお話ししましょう。 エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。 私はこれから どこそこに行くので、あなたはここにいなさい。 すなわち、「私から離れていなさい。」と言い続けているのです。 エリシャはエリヤが、何か特別に 自分の求めているものを 持っているのをのを知っていたので、神様の恵みを失いたくないと思い、「いいえ。 私は決してあなたから離れません。 は生きておられ、あなたのたましいも生きています。 私は決してあなたから離れません。」と言いました。
  聖書の人物の中でも、エリシャはとても根気強い人です。 あなたがたも、世界中で最も根気強く、イエス様に従う人々になってもらいたいのです。 神様はそのような人を探しておられるのです。 神様はあなたがたに力を与えますが、それと同時に 根気強い人を求めているのです。 根気強さは、あらゆる分野で あなたの人生に役立ちます。
  良い例を話しましょう。 私は生まれつき 根気強い性質を持っています。 実際に私を見ると信じれれないかもしれませんが、私が生まれたときは、1キログラムでした。 私の最初のベッドは 靴箱でした。 信じられないかもしれませんが、私はそれほど小さかったのです。 誰も私が大きくなるなんて信じませんでした。 感謝なことに、彼らは間違っていたのです。
  私の中に 細い小さな根気強さのひもが つながっていて、「絶対生きる。 生き延びるぞ。」と言い続けたのです。 根気強さはとても大切です。 これは私が生涯持ち続けているものです。 私は根気強い性質を 神様に感謝しています。 根気強さは成功に導きます。 私は 根気のない人が 成功したのを、見たことがありません。

  多くの場合人々は病人に手を置き、いやされないと、「たぶん神様は、私をいやしの伝道に導いてはいないのでしょう。」と言って、横道にそれてしまうのです。 私が最初に祈った人は 死んでしまいました。 しかし、それだからといって 私は止めませんでした。 私は「次はもっと良い結果になるから。」と、死ぬよりも悪い結果なんてありませんからね。 そのようなわけで、がっかりしないでください。 続けることです。 しかし最初の人が死んだときは とても大きなショックを受けました。
  数年前、ある人が いやしの伝道者の語ったことを、私に話してくれました。 その伝道者は、「もし私が500人の人に祈り、500人全員が死んだとしても、それでも私は病人のいやしを信じます。」と言ったというのです。 私たちも全く同感です。

  根気強さの他の面も話しましょう。 時には、なぜ私たちがそんなに根気強いのか、人々は理解できないころがあります。 けれども50年くらい経つと 理解できるようになります。
  私がまだ少女だったころ、やせたスペイン人がタイプライターと言う機械を持って 私たちの講堂にやって来ました。 今日では誰でも タイプライターを知っていますが、その当時はとても珍しく あまり見たことはありませんでした。 彼はタイプライターの前に座り、タイプを打つと、とても美しくはっきりと紙の上に文字を写していくのです。 彼は一分間に125語も打ち、私は全くとりつかれてしまいました。 私は非常に字が下手で、タイプライターこそ私にとって解決だ と思いました。 そして、私はすばらしいタイピストになろうと決心しました。 学校で、タイプのクラスに入りました。 一週間経ってから分かったことは、彼がやっていたときの 見た目よりも、もっと難しいということでした。 その時、もちろん一分間に125語も打つことはできませんでした。 それでも心の中で、タイプを習うと強く決心していました。 先生のところに行き、先生に、「学校が終わってからでも、しばらく残っているのですか。 もしそうでしたら、先生が帰るまで、タイプライターの練習をしても良いでしょうか。」と聞きました。
  私の言ったことを よく聞いてください。 私はその時何も知りませんでしたが、クリスチャンの信仰の原則を 話していたのです。 私は、「もっと練習をしたいのです。 私はこの学校が始まって以来、一番早いタイピストになりたいのです。」と言いました。 自分の言っていることがわかりませんでしたし、とても下手で、2つ打てば 1つは間違えるほどでした。 けれども私は、すでに 学校で一番早いタイピストになると 強く決心していたので、そのように宣言したのです。 他の生徒たちが休んで、コーラを飲んだり、タバコを吸ったりしているときにも、私はタイプライターに向かって打ち続けていました。 先生は学校が終わってあまり長く居なかったので、十分に練習はできませんでした。 私が育ったセントルイスには、デパートがあり、私はよくバスに乗り 3軒のデパートが並んでいる中心街へ行きました。 その一軒には3種類のタイプライターを展示しており、中に入り、「タイプライターを見たいのですが、試してよいでしょうか。」と聞きました。 私は自分が 正直ではないと思いませんでした。 それは、買いたい とは言わず、試してみたい と言ったからです。 そこで、3台のタイプライターを一台ずつ使い、紙一面にタイプし、店の人にお礼を言って、次のデパートに行ったのです。 そこで 同じことをして、また、次のデパートへ行きました。 そして翌日また戻って、同じことを繰り返しました。
  私があなたがたの心に訴えようとしていることは、根気強さを成長させる願いを持つことなのです。 学校にいる時間の全部を使いました。 学校が終わった後、先生が許してくれる間、全時間を使いました。 それからデパートに行き、紙を全部使ってしまいました。 ついに、最初のスピード試験の日がやってきました。 私の記憶が正しければ、1分間に31語をタイプし、97の間違いをしました。 たぶんこんなに多く間違いをした人を知らないでしょうね。 始めたばかりの人にとっては、31語は悪くありませんが、97の間違いは 信じられないほど 悪い結果です。 しかし、私は学校で一番早いタイピストになると決心しており、また最初から、同じ練習を繰り返しました。 初めは放課後に残り、それからデパートに通い続けました。 ついに、1分間に40語のテストに合格し、50語、60語、・・・ 100語にまで達しましたが、それでも十分ではありませんでした。 私はあのやせたスペイン人のように、1分間に125語は打つ と決心していました。 それ以下では絶対やめないと決心していました。 ですから、手動タイプライターで125語になるまで、練習に練習を重ねました。 手動のタイプライターで打とうとすれば、本当に力が必要です。 しかし、ついに私は、15分間のテストで 何一つ誤りなく打てたのです。 根気強さで、ここまでになりました。
  私は他の人と比べ、特別に才能があったわけではありませんが、根気強さを持っていました。 もしあなたが、「世界中で一番力強い伝道者になる、また、一番大きないやしの働きをする。」と言い続ければ、あなたは、どのようになるか知っていますか? 神様が言われた生活をするならば、あなたが言ったとおりの人になります。 他のことをしたいときでも、根気強くやり続ければ 必ず成功します。 何をするにも、根気強くあってください。
  その当時は、なぜタイプを自分が練習しているのか、わかりませんでした。 多くの女性は、結婚して、家庭を築くことを望んでおり、タイプを使うことなど考えてもいなかったからです。 私は、主人が早死にし、自分で二人の子供を育てるために、商売をしなければならないことになるとは、夢にも思いませんでした。 子供を育てることができた、このタイプの技術を 神様に感謝します。 私は秘書の仕事を始め、これが後に印刷会社になりました。 しかしこれだけが、神様が私をタイプに導いてくださった理由だとは思いませんでした。 私がクリスチャンになるずっと前から、神様が私をタイプに導いてくださった理由は、これだけではないと思います。
  私が この神様の導きを、どのように理解していると思いますか。 神様は、私を著者として、召すことをよくご存じでした。 神様は私が、自分の手で原稿を書く時間などない事を 知っていたのですが、著作を始めるまでの50年間、神様は私がすばらしいタイピストになるようにしてくださり、今日私は、自分の原稿を自分でタイプする、数少ない著者の一人となりました。 私は自分でタイプを打ち、本を編集した後も、また 自分でタイプします。 自分ですれば、好きなように文を配列し、スペースを取り、好きなように本を作ることができるからです。 もし私が根気強くタイプを学ばなければ、これらのことを決してできなかったでしょう。


  エリヤとエリシャに戻りましょう。 列王記U2:7、8 に、

   「預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。 ふたりが、ヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。 すると、水が両側にわかれた。 それで二人はかわいた土の上を渡った。」

とあります。 エリシャはとても強い感動を受けたので、それを覚えていました。 9節に、

   「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。 『私はあなたのために何をしようか。 私があなたのところから取り去られるまえに、求めなさい。』 すると、エリシャは、『では、あなたの霊の、二つの分け前が 私のものになりますように。』と言った。」

とあります。 彼はエリヤの力の一部分では満足できませんでした。 また、エリヤと同じ力でも、満足できなかったのです。 彼は霊的に非常に貪欲でした。 まるで霊的によく食べる豚のようでした。 彼は二倍の力がほしかったのです。 実は、私たちも、こうあるべきです。 真の霊的な豚です。 私は神様のすべての祝福を求めた、このエリシャがとても好きです。 エリシャが何と答えたか見ましょう。

   「『あなたはむずかしい注文をする。 しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことが あなたにかなえられよう。 できないなら、そうはならない。』」

  この書の「見る」という言葉に気を付けてください。 それは、あなたの人生にとても大切な言葉だからです。

   「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。 エリシャはこれを見て、『わが父、わが父。 イスラエルの戦車と騎兵たち。』と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。 そこで、彼は、自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。」 (2:11、12)

  エリシャは他のいろいろなことで 注意力を失うこともあったでしょう。 たぶん、「あの木を見てごらん。 紅葉が美しいよ。」と考えたかもしれません。 彼はまだ若かったので、女性に目をやり 神様を見失うこともあったかもしれません。 けれども、彼は根気強い人だったので、エリヤから目を離しませんでした。 彼はたつまきと共に去ったエリヤを 見ました。 そして、望んでいたものを手に入れたのです。 彼は実行に移す人でした。 なぜなら、行ないの中に信仰が現わされるからです。

   「彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、『エリヤの神、は、どこにおられるのですか。』と言い、彼が再び水を打つと、水が両側にわかれたので、エリシャは渡った。」(2:14)

  エリシャはその外套を取り、「これはとても聖く 義なるものだから、身に着けることはできない。」とも言えたでしょう。 しかし彼は、神様が人を偏り見ないことを知っていました。 そこで彼は外套を取り、エリヤと同じことをしました。 彼は、「水を打って、分けてみよう。」と思い 「えい!」と水を打つと 水は分かれました。 エリシャは、エリヤが水を分けたのを見て、そしてすぐに実行に移したのです。


  ある日、ラジオで 根気強さについて教え始めたとき、私は突然、「見る」という言葉の中に 全く新しい次元を発見しました。 「主よ、私たちは 霊の目で見ていないために、何か大切なことを見逃しているのでしょうか。」と思い始めました。
  2年前のある晩、一人の伝道者が立ち上がり、「ある集会で一人の男性が私のところに来て、一枚の紙きれを私に渡しながら、『神様が あなたにこれをあげるように言われました。』と言いました。 私はそれを ちょっとしたメモだと思っていました。」と話しました。 祈祷課題だろうと思いながら、彼はそれをポケットに入れ、家に帰るまでそれを忘れていました。 そしてポケットから取り出してみると、10万ドルだったのです。 私はいつも、他の神様の働き人が 大きな献金をいただくと、とても興奮します。 私たちは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるすべての働き人に、賛成しています。 私たちの中には、何一つ ねたみはありません。 もし神様が ある働き人にそのようにされるなら、他の働き人にもされると感じます。 なぜなら神様は、人を偏り見られないからです。
  チャールズと私は ある夜、自動車を運転していましたが、私は、「なぜ今まで誰も私のところに来て、『主が、この10万ドルを あなたに与えるように、語られました。』と来る人がいないのでしょう。」と言いました。 私がこのことを神様と語っているとき、神様は、「あなたは今まで、見たことがなかったからです。」と言われました。 この答えは私にとって非常な驚きでした。 そして、私は この 神様が語ってくださったことを考え始めました。

  そして、2種類のビジョンがあることに気づきました:
  一つは、特別な状況の下で 特別な時に 神様が与えてくださる、超自然的な幻です。
  もう一つは、みことばに根ざして 霊の中でその約束を見、実現に至らせる 自然の幻です。  私は、使徒の働き2:17 にあるように、私たちは、

   「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」

との時代に生きていると信じています。 私たちは皆、以前にもまして もっと神様の霊に敏感になり、これからはもっと生活の中に、夢と幻を持つ必要があります。
  チョー・ヨンギ師の「第四次元」の本の中に、「私たちの中に聖霊によって、みことばを生きたものとしてもらい(=レーマ)、若者に幻を 老人に夢を、植え付けてもらいなさい。」とあります。 他の章においても、「聖霊は私たちと共に働き、創造し、若者に幻を与え、老人に夢を与えるために来られました。 私たちは幻を持ち、夢を見ることによって、限界の壁を乗り越え 宇宙へ羽ばたいていけるものです。 みことばに、『幻なき民は、滅びる』とあるのは このことです。 もし、あなたに幻がなければ、創造的ではありません。 創造的でなくなれば、滅びに向かっているのです。 幻と夢は、四次元の言葉です。 そして、聖霊はそれらを通して 語られるのです。 幻と夢だけを通して 大きな教会を夢見ることができるのです。 新しい宣教地を夢見ることができ、教会成長を夢見ることができるのです。」とあります。
  幻は聖霊によって与えられなければなりません。 そうでないと、実現することはできません。 なぜなら 神様のことばに合っていないことを作り出す”空想”を使うわけにはいかないのです。 みことばに立って 大きな幻を持ってください。 そして、何が起こるかを 見てください。 ルカ6:38 に、

   「与えなさい。そうすれば、自分に与えられます。人々は最高の量りによって、押し込み、ゆすり入れ、溢れ出るまでに、あなたがたの懐(ふところ)に入れてくれます。 あなたがたの量るその量りで、自分も量り返されるからです。」

とあります。 私は「天のお父様、私は与えて与えて 与え続けてきました。 そろそろ、私たちが受け取る時ではないでしょうか。 シティー・オブ・ライトには 多くの必要がありますから。お父様、どうぞ 小切手が与えられる幻をください。」と言いました。 私は 10万ドルの小切手をもらう信仰を、持ってはいけなかったのです。 というのは、すぐに神様は幻を与えてくださり、それは1000ドルの小切手で、私が見たのは男性の手でした。 「私の民は幻がないので滅びる。」「幻なき民は滅びる。」との二つのみことばが、心の中に与えられました。 私は 1000ドルの幻を見ながら、自動車の中に座っていました。 これは聖書的でないわけではなかったのです。 それは、ルカ6:38 に立ち、私たちがすでに与えていることを 知っているからです。 私は待ちきれず、集会に走って行くほど 心躍っていました。 「主よ、誰からですか。」と。 私のところに来るあらゆる男性を見て、「あなた。」「違いますか。」「あなたですか。」「違いますか。」と考えていました。 最初の夜誰も小切手をくれませんでした。 しかし、「多分神様は、私に小切手を与えたくないんだわ。」とは言いませんでした。 私は根気強かったのです。 第2夜の集会が終わり、私は本を置いたテーブルの後ろに座っていました。 男性が来るたびに、また私は、「あなたですか。」「違いますか。」と考えました。 第2夜が終わりましたが、誰も小切手をくれませんでした。
  私は失望しませんでした。 なぜなら私たちは、もう一晩あったからです。 同じことの繰り返しで、小切手は来ませんでした。 それでも失望せずに 本を片付けながら、ちょうど手を伸ばした格好の悪い姿勢で 箱を取ろうとした時、一人の男性が後ろから歩いて来て、「フランシス先生、主が これをあなたにあげるように語りましたので。」と言いました。 ハレルヤ! 私はそれをポケットに入れず、見てみると、ちょうど霊の目で見た通り 1000ドルあったのです。 私は 大声を出すところでした。

  チャールズに話すのが待ちきれないほどで、翌日になると 私は私たちの中に、新しい次元が開かれたことを知り、とても興奮していました。 「チャールズ、本当にすばらしいわ。 神様に他の幻も求めましょう。」と言いました。 そして私はまた、1000ドルの小切手の幻を見たのです。 私の信仰は 1000ドル以上のものではありませんでしたが、二日後の夜、集会の前に一人の男性が 子供に1000ドルの小切手を持たせて前に走ってきたのです。 なぜ彼がそれを下かわかりますか。 それは、彼が前の年に1000ドルをささげたことによって、10万ドルを受け取ったので、献金の時を待ちきれずに 早くささげたい と思ったのです。 また、新しい次元の働きが実現したのです。 神様は、私たちのために準備されているものを見るように、霊の目を開いてくださいました。 私はとても興奮しましたが、「神様、もう少し大きな幻をくれませんか。 私たちにゆだねてくださった多くの人々に届くためには、多くの1000ドルが必要です。」と言いました。
  次の旅行の途中、ホテルを出て集会へ出かけようとした時、私の心の中に、5000ドルがひらめきました。 「ああ。 私たちの集会で 今まで、誰も5000ドルを献金した人はいなかった。」と思い、私はとても興奮しました。 そして、「神様、今夜の集会で 誰かが5000ドルの献金をするということなのですか。」と聞きました。 とにかく、このようにして神様が語られることを知りました。 そして神様は、小切手は献金の中に入っている、と言われました。 それまで誰もそのような大金を入れた人はいませんでした。 誰一人としていませんでした。 ・・・ どれだけ大きな期待をもったことでしょう。 その夜、チャールズが話し、献金が終わった後、私は、人々のために祈る時まで座る場所を 探しました。 冷房が故障しており テレビの照明がとても暑かったので、ドアの方を見て、「ステージがとても暑いので下に降りましょう。 チャールズが私に来てほしければ、その時上がれば良い。」と思いました。 ステージから降りて部屋に行くと、たまたま係の人が献金を数えている所でした。 そして、「献金を数えるのを 手伝ってください。」と頼まれました。 心臓が大きく鼓動しました。 私がまず最初にしたことは、小切手を取り出すことだったからです。 一枚ずつ注意深く見ても、5000ドルの小切手はありませんでした。 係の人たちが数えていたとき、私は、お金の一番下に、一枚の小さな紙を見つけ、すぐにそれをつかみました。 多分、私のように速く行動した人はいないでしょう。 それを開けてみると、5000ドルの小切手だったのです。 私たちの集会で、誰もこのような多額の献金をした人はいませんでしたが、私が見たとおりになったのです。 ハレルヤ! 今では私は 主の働きのために 霊の中で、100万ドルの小切手を見ています。 3年間言い続けてきました、霊の目で見て、いつか必ずそれが来ることを知っています。


  霊の目で見ることにより、「もしお金の点で この法則が働くなら、他のことについても 働くはずだ。」と考え始めました。 いやしの分野にも、効果があってよいはずだ と思いました。 私はこのように、霊の目で見ることについて説明しました。
  そして、「神様は、二千年前の恵みのパッケージをくださっているのです。 しかし、困ったことに私たちは救われた時、その一つしかいただいていないのです。 なぜなら、もっとすばらしいものがあることを知らないからです。 教会で 救いのすべてを語り始めると、救われていない人や、病人や 悪霊につかれている人が救われ、いやされ、解放され、聖霊のバプテスマを同時に受けて、帰っていくのを見るようになります。
  多くの人は、「救い」とは一つだけで、「永遠のいのち」だけだと信じています。 しかし、聖書的には、「救い」は 多くの意味を含んでいます。 永遠のいのちは、その一つです。 ギリシャ語のソテニアは、救いと訳されていますが、実は、「解放」、「健康」、「救出」そして「安全」という意味があります。 続けて 私は、「イエス様がカルバリで 私たちの病を ぜんぶ背負ってくださったことを、何人の方が信じていますか? その背中の39の打ち傷は、それぞれ異なった病なのです。」と言いました。
  イエス様が十字架にかけられていたときの姿は、まったく人間としては見えなかったのではないか、と 私は信じています。 痛みのために身体は砕かれ、もはや人間として認めることもできなかったのではないかと思います。 なぜなら、すべての人類の脳性麻痺を身に負ったからです。 また 全人類の癌を 身に負ったからです。 糖尿病もすべて負いました。 あらゆる病を、そのイエス様の身体に負われました。 全人類の あらゆる病です。 十字架のイエス様は、芸術家が描くようなものではなかったと 信じています。 ゴルゴタへの道を歩まれたイエス様と、似ても似つかなかったと思います。 イザヤ52:14に、

   「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。 そのように、彼は多くの国々を驚かす。」

とあります。 さて、人々はなぜ イエス様を見上げて、驚いたのでしょう。 それは、身体がとてもひどく砕かれていたからです。 その身体に、身体障碍の病を見ることができますか。 数えきれない、あらゆる種類の病が その身体にあったのです。 イエス様の指は まっすぐだったと思いますか。 そうではありません。 イエス様の身体は曲がっており、イエス様と認めることさえ できないほどだったでしょう。 ですから人々は、恐怖そのものだと言ったのです。 その顔の表情は、誰よりも損なわれていました。 それはイエス様というよりも、もっと多くの病を負った人は、誰もいないからです。 そして、イザヤ53:10に、

   「しかし、彼を砕いて、痛めることは、のみこころであった。」

とあり、彼が病気になることは、神様のみこころだったのです。 なぜでしょうか。 それは神様が、私たちを心から愛しているため、私たちに病を負わせるのではなく、イエス様に負わせたからなのです。 イザヤ53:5に、

   「しかし、彼は、私たちの そむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

とあります。 私たちはいやされ、完全にされました
  ある人々はなぜ必要ないやしを受け取ることができないと思いますか。 それはイエス様の上に、自分の病を見ることができないからです。 私たちの霊の目が開かれ、私たちのいやしが イエス様に属していることを見た日から、必要な あらゆるいやしを受けるようになると 信じています。 イエス様の中に、私たちの病を見る時、いやしは私たちの生活に現われるのです。
  自分でいやしを見てください。 他人のために、いやしを見てください。 見始めると、あなたの生活の中に 実現します。 あなたの萎えた身体を、そしてそのいやしを イエス様の中に見てください。 しかし根気強くあってください。 初めはいやしを受けなくても、イエス様の上に 自分の病を見続けてください。 私の聖書の中には、「イエス様が取ってくださったので、私たちは病を持つ必要はありません。」とメモしています。

  最初の夜、私がこの話をしたとき、人々が自分の病気をイエス様の背中にあるのを見るようにと 信じながら、「もし、皆さんの中で 自分の病が、イエス様の背中にあるのを見入ることができる人は、前に出てきてください。」と言いました。 私はその時、新しいいやしの次元に 踏み込んでいることを知り、とても緊張した瞬間でした。 一人の男性が前に来たので、「どこが悪いのですか。」と聞くと、「14年前に工場で事故に遭いました。 私の肩の筋肉が固くなっており、手を上げることができませんでした。 今夜あなたが話していたとき、イエス様の上にこの病があるのを見始め、しばらくするとイエス様の肩が固くなっているのを 見ました。 一方、私は野球をするように、手を振っている自分の姿を見ました。」と言いました。 この話をしている間、彼は信仰を行動に移し幻で見たとおり、手を振り始めたのです。 この方法は、いやしについても効果があったのです。
  また、他の婦人は、この男性を見てとても喜びました。 同じ病気を持っていたからです。 そして、彼女の腕は その夜 完全にいやされました。
  私たちの信仰は、いやしの分野で強くなってきました。 そこで私は 他の町でこの話をし、それによって会衆がどのように反応し、彼らの霊の目がどのように開かれるかを見ました。 そしてまた、私は同じ招きをして、「今度は、ただ 自分の病がイエス様の上にあるのを見た人にだけに 前に出て来てもらいたいのです。」と言いました。
  最初の女性に何を見たかを尋ねると、彼女は、「私は自分の食道に多くの穴を見、身体中に関節炎を見ます。 肘、ひざ、お尻、全身にあります。」と言いました。 彼女は何をいただいたかわかりますか。 何も受けませんでした。それは、自分の病気をイエス様の上に見ないで、自分の上に見たからです。 実際のことに目を注いで、イエス様の上に見なかったからです。
  次の婦人は、車椅子に座っていました。 私は、「あなたは何を見ますか。」と聞くと、「私は今夜、このステージで 自分で歩いているのを見ます。」と言いました。 私は「そうですか。 あなたは歩けなくなって、どれ位になりますか。」と聞きました。 彼女は、「一度も歩いたことはありません。 赤ちゃんの時に小児麻痺にかかり、一度も歩いたことがないのです。」と言いました。 私は、信仰のぎりぎりのところまで来ていましたが、神様に不可能なことはないと信じていました。 彼女は、「私はイエス様の身体に、私の小児麻痺を見ました。」と続けました。
  そして、ちょうど エリヤがエリシャに言ったように、私も「もしあなたが、イエス様の上に見たなら、その通りになります。」と言い、いつも引用しますが 使徒の働き3:6の、

   「金貨や銀貨は私は持ち合わせがない。 しかし、私にあるものをあげよう。 ナザレのイエスの名によって、歩きなさい。」

と言いました。 彼女は起き上がり、歩きました。 なぜなら彼女は、二千年前に、すでに身に引き受けてくださった あのイエス様を見上げ、小児麻痺にかかっていない自分を 見たからです。 彼女は私たちのようには歩きませんでしたが、とにかく歩いていました。 幼児の時から全く動かなかった足が、会堂を横切って歩いたのです。
  この時には、私の信仰はとても引き上げられ、非常に大胆になっていました。 私は どのような病気の人でも、自分の病をイエス様の背中に見るなら いやされると、確信しました。
  この同じ説教をした所で、ひどい関節リューマチにかかっている、80代の一人の婦人がやってきました。 私は、彼女から、そのひどいリューマチの全部の悪霊を 追い出そうと思いました。 彼女は私の話が終わると、一番先に前に来た方でした。 彼女の曲がった指は まっすぐになり、背中もまっすぐになり、全部のリューマチが身体から出て行ったのです。 彼女は前にかがみ、つま先に触りました。 神様に感謝します! 彼女は本当に イエス様の背中に リューマチを見たのです。
  その同じ集会で、リューマチで非常に身体が曲がっており、靴の紐を結ぶことが長い間できなかった 一人のカトリックの男性がいました。 彼は前の席に座り、イエス様の背中に自分の病を見て、皆の前で 靴の紐を結んだり、解いたりできるようになったことを 見せてくれました。

  ある年、私たちはピッツバーグのカリスマ集会で、最初のスピーカーとして招かれました。 そして、聖霊に対して敏感であったために、すばらしい結果を見ました。 時には、自然の思いとは非常に異なるため、自分では到底できないと感じるでしょうが、それでもやってください。
  集会の前に、一人の婦人がやって来て、「私の娘は死にそうです。 4か月も危篤状態にあります。 医者は 集会の終わりまでもたないかもしれない と言っています。 でもとにかく、ここに連れてきました。 どうか娘のために 祈ってくださいませんか。」と言いました。 普通、私は ロケットのようにまっすぐ行きますが、神様は私に、「まず、みことばを与えなさい。 詩篇107:20 に、『主は みことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。』とあるのを覚えていますか。」と言われました。
  私たちはステージの下に座っていたので、この少女を見ることはできませんでしたから、ステージに上り 初めて彼女を見ました。 「おお、神様。 集会中に 死なせないでください。」というのが私の最初の思いでした。 私は今まで、生きていながら このように 今にも死にそうな人を、見たことがありませんでした。 頭は横にぐったり垂れており、舌は口から飛び出たままでした。 チャールズは彼女を見て 死んでいると思いました。 彼は、「神様、あなたは 今夜私たちに、死人を生き返らせる奇跡を望んでおられるのですか。」と言いました。 私たちは 一度も 死人を生き返らせたことはありませんできたが、準備はできていました。 集会中、私はこの少女を見ていました。 頭は全く動かず、同じ位置にあり、一度も目を開きませんでした。 全く何も起きませんでした。 しかし、私が、「もし、あなたが見れば、その通りになります。」と言い終わると、神様は、「、降りて 彼女をいやしなさい。」と言われました。
  チャールズと私が彼女のところに降りていくと、全員が立ち上がり、何が起こるか見ようとしました。 私はこの少女のところに行き、「私の言ったことを聞きましたか。」と言いました。 小さな声で「うん。」と言いました。 私が「私の言ったことがわかりますか。」と聞くと、同じ小さな声で「うん。」と言いました。 「何を見ましたか。」と聞くと、彼女は言いました。「私は自分が今夜 完全にいやされるのと、イエス様の背中に私の病気が置かれているのが 見えました。」(彼女が 時間を指定したことに注目してください。)
  私は、「エリヤは『もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことが あなたにかなえられよう。 できないなら、そうはならない。』」と言いました。 ですから私は あなたが自分の病をイエス様の背中に見た、と信じます。 もう一度、
   「金貨や銀貨は私は持ち合わせがない。 しかし、私にあるものをあげよう。 ナザレのイエスの名によって、歩きなさい。」
と言いました。 彼女は、その車椅子から飛び出して、チャールズと一緒に ドークシン大学の講堂の後ろまで歩きました。 この少女は、4か月間病院で長血のために危篤状態にいたのです。医者はとても悪い状態なので 集会が終わる前に死ぬかもしれません と言ったのですが、講堂中を非常に楽しくあちこちと歩き回りました。 翌日になると、彼女はドークシン大学の近くの山を走りながら、「どこも悪い所や弱い所はありません。」と言いました。 彼女は、自分の病気を、イエス様の背中に見たのです。 奇跡は、私たちの問題を、イエス様の背中に見る時に起こるのです。

  私たちは、次に、他の町に行きましたが、そこの集会のステージは丸形でした。 動脈硬化症の一人の婦人が 前に連れて来られました。 「何を見ましたか。」と聞くと、彼女は「私はイエス様の背中に 動脈硬化症を見ています。 そして、他に何が見えたかわかりますか。」と言いました。 それで私は、「いいえ、何を見たのですか。」と聞くと、「この大きな丸いステージを走っているのを見ました。」と言いました。 私はエリヤが言ったように、「もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことが あなたにかなえられよう。 あなたは霊の目で見たので、肉の目でも見るでしょう。」と言いました。 この婦人は丸いステージを走り回りました。 私は彼女の腕を支えようとしましたが、彼女は私の手を振り解き、「私は誰からも助けてもらわないで走っているのを、見たのです。」と言いました。 主よ、感謝します。 ハレルヤ! 彼女はその丸いステージを、一回や二回でなく、少なくとも10回は走りました。 なぜでしょうか。 それは、彼女が新しい次元に入ったからです。 そして病気をイエス様の体の上に見たからです。


  私は、イエス様の背中に 自分の病を見た人々の いやしについて、本を一冊書くことができますが、私たちは他の多くの分野で、さらに深い世界に入ることができると信じています。 チョー・ヨンギ師は誰もいない会堂で、集会説教をしましたが、決して人を(状況を)見ませんでした。 目をつぶって 席が満たされているのを 見たのです。 一万の席が人々で埋め尽くされているのを見ましたが、もし目を開けていたら、何を見たと思いますか? 多分、15〜20名、あるいは 30〜35名くらいだったでしょう。 彼は目を閉じ続けました。 そして、霊の目で、あの大きな会堂が一杯になっているのを見たのです。 霊の目で50万人教会を見ています。 チョー師が目を開いて、「今日は会堂に15人しか来てな」と思ったら、決して今日のようではなかったと思います。 その代わりに目を閉じて、霊の目を開いていました。 彼は会堂が一杯になっているのを見たのです。 会堂に人々が立っているのを見たのです。 実際に起こっていることを見ませんでした。 なぜなら、失われた人々が前例のない数で、イエス様のところに来るのを幻に描いていたのです。 神様に栄光あれ!

  「見る」ということについて話す時、私はこのことをよく強調します。 それは、”想像”することではなく、このように起こるという信仰を持つことなのです。 想像は 時には問題を起こします。 しかし、信仰の幻は、あなたに解答をもたらします。
  シティー・オブ・ライトを私たちは建設中ですが、神様は幻を与えてくださいました。 シティー・オブ・ライトに、神様が世界の最高のオーケストラを集めているのを、見ることができるのです。 神様が音楽家を集めているのを見ます。 私たちには 現在、音楽家はいませんが、実現すると信じています。 それは、私の霊の目で、見ているからです。 私は私たちの伝道学校が、学生でいっぱいになっているのを見ています。 学生が多すぎて、部屋が足りないのを見ています。 これらのことを、私は 霊の目で見ているのです。 必ず実現します。 私は心の底から、たましいと 思いの中に、これらのことを信じています。
  もし私たちが、悪魔の準備しているものを見ないで、神様が私たちに準備してくださっているものを、霊の目を開いて見るならば、神様の栄光を見ることができる、と信じています。 多くの人々は、神様の計画よりも 悪魔の計画のほうに目を留めやすいのですが(原罪の性質)、私たちが神様の計画を見、その次元に入るためには、少しの超自然的な幻が必要です。 悪魔はあなたが病気で、貧困で苦しんでいるのを見てもらいたいのですが、神様は、

   「愛する者よ。 あなたが、たましいに幸いを得ているように、すべてのことにも繁栄し、また健康であるように祈ります。」 (Vヨハネ :2)

と言われました。 ( ・・・・ 祝福の順:  まず、たましいの幸いがあって、 それから、 繁栄、健康が 実現する)

  もし、あなたが、いやしが必要ならば ― 見なさい!   もし、あなたが、お金が必要ならば ― 見なさい!
  もし、あなたが、解放が必要ならば ― 見なさい!   もし、あなたが、結婚相手が必要ならば ― 見なさい!
  もし、あなたのご主人や奥さんが救われる必要があれば ― 見なさい!
  もし、あなたの子供が救われることを望むならば、聖書を手にし、福音を語っている幻を、見てください。

  これこそ、最も報いがある 霊的、超自然的な次元ですが、あなたの”想像”に入らないようにしてください。 そして 神様のみことばと一致しない幻を見ないようにしてください。 みことばと一致させてください。 そして、「あなたが見たことを、あなたは得るようになる。」ことが実現するのを見守ってください。






   第8章   いやしの条件           フランシス著



   多くの人々は、神様のいやしには条件があることに 驚きます。 でも、この本を読んでいくうちに、いつも神様は 全権を持っておられることを、覚えていてほしいのです。
  神様は、ご自分のしたいことを、ご自分のしたい時に、誰に対してでも正確に行なうことができます。 私たちがいやしの特別な方法を知り、全部わかったと考えているときに、何が起こりと思いますか? 神様はペンチをポンと投げて、「見てごらん。 他の方法でもいやすことができることを 見せましょう。」 と言われる方です。
  しかしそれでも私たちが学ばなければならない基本的な教えがあり、その中の一つは、いやしには条件があるということです。 みことば全体には、神ご自身の働かれる分野と、私たちの働く分野がある ということが記されています。 私たちは私たちの分野を成し、神様は神様の分野を成すのです。
  神様は、「あなたがたはこれをしなさい。 そうすれば、わたしはそれをします。」 と言っているのです。 愛と 慎みと 恵み の神様ですが、私たちに一定の法則に従って歩むように、基準を定められたのです。 子供に対するのと同じです。 もし子供を 全く何の基準もなしに育てるなら、動物のように荒っぽい人になってしまうでしょう。 食べたいものだけを食べさせるとすれば、何を食べると思いますか。 キャンディーばかりでしょう。 そうすると大人になる頃には歯は一本もないでしょう。 そして とても不健康で、身体も強くないでしょう。ですから私たちは、親として子供たちを上手に育て上げなければなりません。 身体が弱くなったり、病気にならないように、良い食べ物を与えるように注意しなければなりません。 マラキ4:2 に、

   「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼(=太陽の光線)には、いやしがある。 あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように 広がっていく。」

とあります。 このみことばに合った 必要な条件は何でしょうか。 それは、「わたしの名を恐れる者」です。 これは悪魔が私たちに持ってくるようなものではありません。 私たちが人生に持たなければならない 必要な畏れなのです。 それは神様への恐れです。 もし、いやしを望んでいるならば、マラキ4:2 は、「を畏れる」という、一つの条件が 記されているのです。
  今日、神様を恐れない人々が多くいます。 また、最後まで神様を呪い続ける人々がいます。 多分、「神様は 罪人をいやされないのですか。」と聞く人がいます。 いやされます。 神様は全権を持っておられ、罪人を、聖徒と同じように いやされます!

  ある夜、小さないやしの集会で、バルコニーに、不可知論者(無神論ほどではないが、全能者・神を人は経験的に知り得ない、とする立場)が座っていました。 彼は 見せかけだけのいやしだと思って、冷やかし半分でそこにいたのです。 チャールズはバルコニーを指さし、「バルコニーにいる人で、腕の下に大きなこぶのある人がいます。 とても痛みがありますが、今 いやされました。」と言いました。 この男性は、腕の下に野球のボール大の腫れ物があったのですが、瞬間的になくなったのです。 彼は息せき切って、ステージまで走ってきて、そして信じました。 奇跡は罪人を 急激に方向転換させます。 箴言3:5 には、

   「心を尽くして に 拠(よ)り頼め。 自分の悟りに頼るな。」

とあります。 ここに、「少しだけに頼りなさい。 日曜日だけ頼りなさい。 月曜日から土曜日までは忘れなさい。」とはありません。

   「心を尽くして 主に 拠(よ)り頼め。 自分の悟りに頼るな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 自分を知恵のある者と思うな、主を恐れて、悪から離れよ。」 (箴言3:5−7)

とあります。 最後の節には条件があります。 8節にはその結果があります。

   「それは あなたのからだを健康にし、あなたの骨を元気づける。」

  「主により頼む」ことは神様の薬です。 もし神経のいやしがほしければ、この条件に従い、何が起こるのかを見てください。 これが私の知っている限りの最高の方法です。
  また、最後の言葉も、はっきりとこのことを言っています。 そこには、「悪を離れよ」とあります。 少しだけではありません。 「完全に」です。 今日、私たちの世界には、毎日誘惑があります。 しかし、神様は何と言っておられるのでしょうか。 「悪から完全に離れよ!」と言っているのです。
  罪の生活をしながら、神様の最大の祝福を望むことはできません。 また、ある時には悪魔のところで働きながらでは、神様の豊かな祝福を期待することはできません。 悪魔の支配下にありながら、神様の祝福が豊かに与えられると考えてはなりません。 神様は、「完全に悪から離れよ」と言っておられるからです。
  誰が私たちを、悪魔から神様に向かわせるせるのでしょうか。 それは私たちです。 神様はあなたの方向を変えることをなさいません。 神様はあなたに必要な力を与えてくださいますが、決心はあなたに任せ、そしてあなたが 完全に悪から離れよ、と言われるのです。
  条件があり、約束があります。 もし、全世界の「神経症」の人々が を信頼し、頼り、みことばを実行するなら、ずっと数が減ることでしょう。

  もし、あなたが罪人であって、救われたばかりだったらどうでしょう。 クリスチャンになる前に 健康にならなければいけないのでしょうか。 そうではありません。 しかし、健康になる前に、クリスチャンにならなければなりません。 私が救われる前に、毎日 19錠の甲状腺剤を飲まなければなりませんでした。 しかし医者は、私が 医学者に記録されている中で 誰よりも多く、甲状腺剤を飲んでいる と言いました。 副腎ホルモンの調節をしていました。 私は、アジソン病の被害者で、午後3時ころになると 人間のようには見えませんでした。 皮膚が灰色というよりは 黒くなり、気を失ってしまうのです。
  私は 罪人であることを認めるのが、とても難しかったのです。 私が救われるまでの9か月間は 非常に苦しみましたが、一旦救われると、神様のすべての祝福を欲しいと思いました。 神様は私の心を見られ救われたその日に 私はいやされたのです。 救われたその日、致命的なアジソン病から完全にいやされ、それ以来、一度も甲状腺剤を飲んだことはありません。 数週間後になって、やっと薬を飲んでいないことに気づいたほどです。
  多分 皆さんは、私がコーチゾンの代わりに なぜ甲状腺剤を飲んでいたか疑問に思われるかもしれません。 というのは、アジソン病の治療は、通常 甲状腺剤を使わないからです。 医者は コーチゾンの飲みすぎで私の甲状腺はだめになっているため、多量の甲状腺剤をくれたのです。 それにもかかわらず、今日 私の甲状腺は完全です。 神様に感謝します!

  他の約束の条件を見ましょう。 詩篇128に、 「幸いなことよ。 すべて 主を恐れる者、」とあります。 神様を信頼し、敬っていながら、それでも不従順になることがあるのを知っていますか。 あるのです。 礼拝に出て、「ハレルヤ! あなたをあがめます。」と言いながら、教会から出ると、罪を犯す人を私は知っています。 多くの人々がそうしているのです。 自分たちが何をしているのかさえ、気づいていないのです。 しかし、聖書は、「神を敬い、信頼し、従う者祝福があるように。」とあります。 いやしは、多くの祝福の中の 一つです。

  神様はまた、多くの自然の法則を定めています。 起きているときがあり、眠っているときがあります。 ずべてには時があります。 神様は私たちに 身体を大切にすることを望んでおられます。 もし健康でありたいなら、「いくら徹夜しても、病気になったり疲れたりしない」などと思わないでください。 私は8時間睡眠が必要です。 ある人々には少しの睡眠で良いのですが、ある人々にはもっと必要です。 しかし、神様が定めた健康の法則を無視して 健康を保つことはできません。もしそうするなら、必ずその結果を刈り取ることになります。
  私は 35年間喫煙し、終わりには 一日5箱もタバコを吸い続けました。 そんなに長い間吸い続けていたら、身体が悪くなってしまいます。 循環器にはこれほど悪い物はありません。 多くの人々は 肺がん、または 動脈硬化で死んでしまいます。 神様が何と言おうと、政府が何と言おうと、タバコを平気で吸い続けるのです。 とても馬鹿らしいことだと思いませんか。 これはちょうど、毎日少しずつ 喉をナイフで切り取っているようなものです。 そして間もなく 頭全体を切り取ってしまうことになるのです。 詩篇128 には、

   「幸いなことよ。 すべて主を恐れ主の道を歩む者は。 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で幸せであろう。 ・・・ 見よ。を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。 ・・・ 」

とあります。 主に従うあなたがたの報酬は、繁栄と幸福なのです。 そしてさらに、 「あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。 あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。」 とあります。 私は、ヘブル書11:6 の、

   「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。なぜなら、神のところに来る者たちは、神がおられることと、 ご自分を捜し出す者たちには褒賞を与えられる方であることとを、信じなければならないからです。」

というみことばが好きです。 神様は、信じる 頼る者に、報酬を下さいます。 神様は、報酬を下さる方なのです。 神様を心から 探し求める者たちに対して、健康は神様の報酬の一つだと信じています。 神様を心から探し求める者に与えられる祝福の一つは、健康だと信じています。 さらにもっとあります。

  神様は、幸福の報酬をくださいます。      神様は、豊かな生活の報酬をくださいます。
  神様は、経済的祝福の報酬をくださいます。    神様は、すばらしい妻や 夫の 報酬をくださいます。

  いやしと健康は、私たちが願う最も大切なことです。 もし健康か 富か のどちらかを選ぶとすれば、健康の方がはるかに大切です。 全世界の富を手に入れても、毎日 痛みで苦しんでおれば、何も良いことはありません。


  申命記28章には、神様の健康を得る 多くの条件が記されています。 その第1のものは、

   「もしあなたが 心を尽くして、あなたの神 の御声に聞くならば、」

とあります。 「心を尽くして聞く」とは、知性で、心で、身体で、たましいで、あなたの全身全霊で聞く という意味です。 これは、テレビを見ながらとか、ラジオを聞きながらとか、他の人の話を聞きながら という意味ではありません。 神様に聞くとは、他のすべてを閉め出して 全能の神様に聞くことです。 なぜなら、神様は、とても静かに語る時があるからです。
  申命記28:1 の、第2の条件は、

   「わたしが、今日、あなたに命じる 主のすべての命令を守り行なうなら、」

ということです。 神様の言うことを聞くだけでなく、行なわなければ 何の益もありません。 このことは、信じ、従う者に約束されている すべての祝福のみことばと 一致します。 もし、「わたしがあなたに命じる 主のすべての命令を、守り行なうなら」、 モーセは、

   「あなたの神、は、地のすべての国々の上に、あなたを高く上げられよう。・・・ 次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」

と言いました。 あなたがたは、なる神様の 御声に聞き従わなければなりません。 そして、ただ みことばを聞くだけでなく、行なう者にならなければなりません。 多くの人々が集会から集会へ、教会から教会へ、特別な説教者から他の説教者へ、走り回りますが、学んだことを決して行おうとはしません
  この本が、あなたに教えることができる事の一つは、あなたが集会出席にのみ頼ることを止めて、さらに前進し、主の前に 何かをするようになることです。 これこそ、あなたが いやしと祝福をいただく一つの秘訣です。 イザヤ58:6−8 にも同様のみことばがあります。

   「わたしの好む断食は、これではないか。 悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家にいれ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をする事ではないか。 そのとき、暁のようにあなたの光がさし出で、あなたの傷はすみやかにいやされる。 あなたの義はあなたの前に進み、の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」

  神様はあなたをいやされます。 もしあなたが、神様の願われる生活をするとき、あなたはいやされます。 また、この点を強調している よく聞くみことばが、出エジプト記15:26 にもあります。

   「もし、あなたがあなたの神、の声に確かに聞き、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてを ことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を 何一つあなたの上に下さない。 わたしは、あなたをいやす者である。」

  ここでも神様は、私たちに、彼に聞き従うことの必要性を語っています。 他にも、よく知られているみことばで、マラキ3:10 に、

   「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。 こうして わたしを ためしてみよ。 ― 万軍の主は仰せられる ― わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を、あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

とあります。 私たちはこのみことばを何度も聞きました。 しかし、その次のみことばを見てください。 マラキ3:10の従えば、どのようになりか記されています。

   「わたしはあなたがたのために、いなご(食う者)をしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。 ― 万軍の主は仰せられる ― 」

  そのみことばには多くの人に、祝福の約束が記されています。 これはどういう意味でしょうか。 数年前のことですが、集会後に牧師が私のところに来て、「ここに二人の子供が 筋ジストロフィーにかかっている、宣教師の家族がいます。 あなたに祈ってもらいたいそうです。」と言いました。 筋ジストロフィーは、全身の筋肉を冒す致命的な 不治の病です。 不治の病は、悪霊が原因しており、その悪霊を追い出さなければならないと、私たちは信じています。 普通、私は、筋ジストロフィーの霊を追い出しますが、神様は私が始める前に、他の事を語ってくださいました。 「什一献金をしているか聞きなさい。」と語られました。 これは、百、二百人の会衆が 私のすべての言葉に耳を傾けている教会での 質問としては、とても難しいことです。 皆が聞いている前で、宣教師にこのような質問をするのは、大きな勇気がいりますが、神様は、「什一献金をしているか聞きなさい。」と言われました。 主の前に恐れをなして、私は、「兄弟、あなたがたの子供たちに手を置く前に、一つの質問をさせてください。」と言いました。「はいどうぞ。」と彼は答えました。
  「什一献金をしていますか。」と聞きました。 「私はクリスチャンになって以来、ずっと 什一献金をしています。」と答えました。 「ハレルヤ! それでは、多くの人々は忘れがちですが、マラキ3:11のみことばに立ち、あなたのために、 食う者を叱りつけ、あなたの地の産物を滅ぼさないようにしましょう。 『時期の来る前に あなたのぶどうは、決して枯れることはない。』と主は言われます。 神様は あなたのぶどうを枯らさず、あなたの子供たちを寿命が来るまで、死なせることはない。 あなたが什一献金をし、神様に忠実に捧げているため、子供たちに手を置いて、主イエス様の御名によって いやしを宣言します。」と言いました。 それから私は、筋ジストロフィーの霊を追い出しました。 その時には、見える形でのいやしはありませんでしたが、翌朝、この二人の娘さんが ベッドから自分の力で初めて起き上がり、牛舎の子牛のように歩き回りました。 ハレルヤ!
  なぜこの宣教師の子供たちはいやされたのでしょうか。 それは、彼が神様に忠実にささげており、神様は切に求める者に報いてくださる方だからです。 神様に忠実だったために、すばらしい報酬をいただいた彼らの心は、どんなに喜びにあふれたことでしょう。


  他にも多くの異なったいやしの方法があり、多くの異なった条件があります。 しかしながら、神様は全権を持っておられることを知っていてください。 神様は何でも望まれることをされる方です。 私が語ったこれらすべての条件を、神様は無視することができるお方です。
  皆さん、今まで 罪に深く入っている人を見て、「神様、あの人はこれまで1円でもあなたに捧げたことはありません。 罪に汚れており、あなたを愛していませんし、あなたの名を汚しています。 それなのに、あなたはいやされたのですか。」と疑問に思ったことはありませんか。
  あなたがどのように感じようと、神様は全権を持っておられることを 知ってください。 神様はあなたの考えていることと、必ずしも同じ方法をとるとは限りません。 神様は全権を持っておられるので、ご自身の方法をとられるのです。 いやしではなく、神様ご自身を 探し求めるようにしましょう。








   (筆者注  追加のみことば)

     「さて、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父のなさることを見て行なう以外に、自分からは何事も行なうことができません。それは、父のなさることはすべて、子もその通りに行なうからです。」」 (ヨハネ5:19)

     「神の形であられる方が、 神に等しい者であることに固執せず、 ご自分の 神としての権利を無効にし、 しもべの形をとられ、 人々と似たものとなられました。そして、人間の生活様式をもって現れ、 ご自身を卑しくし、 死にまでも従われました。 実に、十字架の死にまでです。」 (ピリピ2:6、7、8)

     ・・・・・ イエス様は、第2位格の神としての権利を放棄され、あえて、私たちへの模範として、 聖霊のバプテスマを受けられ、御父の示される幻を見て、多くのみわざを成された。 私たちの最終目標は、キリストに似た者となること(=Christ‐like‐ness)です。 敬虔(けいけん)とは、ただ主を畏れかしこむだけではなく、日々、神様の奇跡を体験して歩む生き方のことを言います。




            次へ        戻る      トップへ戻る